戦争あかん!ロックアクション ―戦争法・秘密法廃止!―

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ロックアクション講演会「関東大震災朝鮮人虐殺といま」文字起こし② 西崎雅夫さん(前半)

 

戦争あかん!ロックアクション講演会(2017.11.06)
関東大震災朝鮮人虐殺といま」
~あの日、あの空の下、東京で何が起きていたのか?~

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講演 西崎雅夫さん(前半)
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会・一般社団法人ほうせんか)


 大阪でこういう話をすると思っていませんでした。東京の地名とかいっぱい出てきますのでわかりにくいと思いますけども。
 私自身は研究者でも何でもなく、たまたま長くこの運動にかかわった一市民。だから市民としてかかわった実感から話をしたいと思います。

 これ、関東大震災の時の地震の図です。震度7は神奈川県の南部ですね。1923年木造住宅ですから被害が大きかった。でもそれ以上に被害が大きかったのは、これは東京の中心の震度なんですけど、東の方、江東ゼロメートル地帯、揺れがひどく被害が大きかった。しかし揺れ以上に火事なんですね。関東大震災の場合。

 亡くなった人の多くは火災なんですね。これは火事の燃え広がる様子を現したものですが午後1時から6時間後、地震があって6時間後には東京の中心部の半分ぐらいが燃えていた。それぐらい早い火災。お昼時だったのでいろんなところから出火して、風が強くて火事が一気に広がってしまいました。この一気に火事が広がったっていうのが、あれは朝鮮人がやった、になったんですね。犠牲者が10万人でていますが、その多くは火災なんです。東京の死者が7万人、神奈川が3万人。

 火災が多かったので被災者がでる。190万人。家を失って路頭に迷う。その中で人災が起きた。当時テレビもラジオもない新聞社も焼けていて発行できない。情報がまったく途絶するんです。東京の中心部が焼けてますから国家機能が一時的にマヒする。だからその中で事件が起きたんです。

 事件が起きた現場の一つが、私が直接かかわり始めたのがこの場所です。東京の墨田区にある荒川放水路。人工の川。この写真の真ん中に、今はないですが昔は木の橋の四ツ木橋という橋があった。これが避難経路になったんです。

 絹田幸恵さんは小学校の教師をしていました。この人がそもそも今の場所で、事件の発掘をした人です。絹田さんは生徒たちに、荒川放水路の話をしました。荒川放水路っていうのは人工の川だよ、あれは人の手で掘った川だよ。ところが生徒が信じなかった。「先生、あんな大きな川が人の手で掘られたなんて信じられないよ」

 絹田さんが偉いのは、これは自分の教え方が悪かったのだなと思って、荒川放水路の歴史を調べ始めます。工事のことを知っているお年寄りに話しを聞いて回りました。上流の北区岩渕から25キロ、夏休みを使いながら真っ黒に日焼けして一軒一軒お年寄りの家を話を聞いて回った。その中で「朝鮮人が殺された」話を聞いた。関東大震災の時、ここの四ツ木橋のところでたくさん朝鮮人が殺された。その朝鮮人の遺体が今でも河川敷に埋められたままになっている。で、絹田さんが呼びかけて、追悼する会ができたのが、1982年。私自身はその当時から関わっています。発足の時私はまだ、大学4年生でした。

 なぜこの地域でそういう事件が起きたかというと、荒川放水路の工事は大変な工事だったので、たくさんの労働者が働いていた。当時植民地だった朝鮮半島から出稼ぎにきていた朝鮮人労働者がたくさんいて、その工事をしていた人たちの中に朝鮮人が何人もいた。町の中の工場でも、主に石炭を運ぶとかいう力仕事にはたくさん朝鮮人が働いていた。東京の東部は朝鮮人労働者がたくさん働いて住んでいたところなんです。

 これは、関東大震災の時工事をやっていた土方の親方の日記です。その中には、パクさんとか李さんとか名前がいっぱい並んでいて、その下にトとカタカナが書いてある。これはトロッコ押しの仕事をしていたという記録なんです。こんな具合に朝鮮人の労働者がいっぱい働いていたんです。そこに関東大震災が起きる。
 (旧四ツ木橋付近の地図を見て)ここに荒川放水路があります。向こう側(地図の左端)に隅田川があります。これ(荒川放水路)斜め、ここまでなんですけど、こっち側(隅田川寄り)焼けているんです。焼けた地域から人が避難して来る。川があるので橋を渡るしかない。それが四ツ木橋なんです。どうしてもそこに人が集中したのです。

 9月1日の夜、地震があった。このあたりに2万人ぐらいの人が避難した。家が焼けた、余震もある、怖い。そこにデマが流れるんです。朝鮮人が火をつけたと。いろんなものが爆発しますよね、火事ですから。あれは朝鮮人が爆弾を投げている。そういうデマが一気に流れる。そこですぐできるのが自警団。服装がバラバラで持っている物もバラバラです。つまりあっという間にそこら辺にいる人が、集団になって自警団を作って、家の中にある、あるいはそこら辺にある武器を持って武装したわけです。で、いたるところで朝鮮人を見つけては殺していくということが始まります。
 朝鮮人が襲ってくるというデマが流れたから、逆にその前に自分たちから朝鮮人を発見して襲っていくわけです。そういう事件がいっぱい起きて被害者がいっぱい出ます。

 先ほど写真を見せた荒川の場所では大体100人ぐらいが殺されています。1982年会を作った段階では、そこにまだ、遺体が埋められたままになっていると聞いたので、掘り起こしてみようということになった。試掘です。1982年の9月に掘ってみた。でも遺骨らしいものは出ませんでした。
 私たちは、これはまだ調査が足りない、もっとしっかり調べれば正しい遺骨の発掘地点が分かるのではないかと、いろんな文献資料を調べていくと、実は当時の新聞記事の中に、もうすでに、警察の方で密かに遺体を掘り起こしてどこかに持って行ってしまった。しかも2回もそれが行われたという記事があった。それがこの新聞の写真です。ここに書いてあるのは「骨も掘れずに遺族引還す」というタイトルです。もっと読むと「亀戸事件死体遺棄の現場は憲兵や警官に守られて」と、こういうタイトルです。実は亀戸事件の遺族たち、亀戸警察署の中で労働運動家が10人殺されているのです。その人たちの遺体も、朝鮮人の遺体とともに河川敷に埋められていたのですね。で、亀戸事件の遺族たちが遺体を返せ、明日骨を掘りに行くぞと言った、前の日の夜に警察が密かに遺骨を掘り起こしてどこかに持って行った。当日はいっさい遺族は現場に近寄らせなかった。これが11月13日。発掘は12日の深夜に行われた。2日後の14日にも2回目の発掘が行われた。トラック3台分の遺体を運び去ったと言われています。亀戸事件で殺された労働運動家10人、自警団員も一緒に殺されています。でも、おそらくそれだけではなかったんでしょう。一緒に埋められていた朝鮮人の遺体100人ぐらいが遺骨が運ばれて行ったんでしょうね。
 で、私たちは、こんな具合に発掘をしてみたんだけれども、遺体が見つからずよくよく調べたらすでに震災の年の11月に警察が運び去ったということが分かったので、せめて少なくとも現場に追悼碑を建てようとなった。河川敷に追悼碑を建てたかったが、一級河川なので国有地になる。国の許可が必要だが出なかった。建設省(当時)としては許可は出せないが、墨田区がうんと言えばこちらも考える。仕方がないので墨田区区議会に陳情書をだしたが、「区としても協力できない」という回答。仕方がないので私有地を探したが、事件のそばに良い土地はなかなか売ってない。

 2009年に追悼碑ができた。毎年9月河川敷で追悼式をやってから近所の居酒屋さんで打ち上げをしていた。これ、居酒屋さんの土地でした。親父さんと10年20年のつきあいになって、その間ずっと土地を探していたがどうしても見つからない。親父さんに相談したのです。どうしても追悼碑を作る土地が見つからないと。親父さんが「俺も年だから店をたたむからここに作ればいいよ」と言ってくれた。だから19年かかっている。そのほとんどが土地探しです。でもそう言って協力してくれた人がいたから、小さな私有地ですけど碑ができた。その隣に資料館を作った。小さいですけどいろんなことをして学びの場にもなっています。

 追悼碑ができた2009年、新聞にも出たからか、ちょっと反応がありました。追悼碑ができた直後来てくれた60歳ぐらいの人かな。「自分はおじいさんから話を聞いた。おじいさんは年をとってきたときに、初めて言ったんだけど、『自分は朝鮮人を仲間と一緒に5~6人は殺した。村のもの数人で、朝鮮人を後ろから鉄の棒で叩いて、気を失ったのを返事しないからと何度も叩いた』と得意げだった。でも黙ってろよと最後に言うんだ」
 聞いたお孫さんはびっくりして、「うちのおじいさんも直接かかわってたんだ」。その後、ずっとモヤモヤした気持ちできたんでしょう。追悼碑ができた時、「自分のじいさんは本当に申し訳ないことをした」と、せき込むように話してくれました。

 あるいは別の日に83歳ぐらいの人が追悼碑をじっと見ていて、話を聞くと、自分のおばあさんが四ツ木橋のらんかに欄干に朝鮮人を押し付けてサーベルで刺殺して川に投げ込んでいるのを見た。おばあさんはびっくりして走って帰った。サーベルは当時警察官が持っていたので警察官がやったのではないか。
 そんな話がいろいろ聞こえてくるんですね。つまり、地域の中にずっと眠っていた話が、こういう運動があって、追悼碑ができ、直接の加害者が亡くなって少し出てきやすくなったのではないか。そういう意味で街中に碑があるのはいいことじゃないかという気がしている。

 毎年河川敷で何もないところで追悼をしているので、いろんなことを考えるようになりました。なんでしょうね。私自身、この河川敷で当時のことをお年寄りから直接証言を聞いたものですから、証言の重さというか大きさというか体感できた。逆に言うと証言でしか知りえない部分がたくさんあるという風に感じるようになった。当時植民地ということもあって関東大震災朝鮮人虐殺事件は徹底して隠された。何人殺されたかいまだにわからない。名前も遺骨の行方も分からない。だから証言が非常に重要。だから何年かかけて証言を集めるようにした。

 何がいいたいかというと、まず公的な資料が非常にすくない。公的な資料を補う証言を紹介したい。これが主な話の中心です。
 震災の時に政府が公的なルートでデマを流したというのはご存じの方も多いと思います。内務省警保局長の名前で電報を出してます。全国にどんどん何回も。内容は
 「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり」
 流言を事実として電報を出してしまっている。つまり、政府は直接この事件に関わってしまっている。でもそれ以上のことはなかなか資料では出てこない。だから民間の証言をいっぱい集めて警察官とか憲兵とか公の立場にいる人がどのようにかかわっているかを調べてレジュメの3~5ページにまとめました。少し紹介します。

 まず伴さんという品川の人。
 「(1日の夜)サーベルの音もものものしく、制服の巡査が巡ってきて、『皆さん、今この非常な天災の時につけ込んで鮮人(ママ)が暴動を起こして市民の井戸などに毒物を入れて歩いたり、暴れ込むということもあるかも知れない。井戸水は気を付けてなるべく飲まないようにし、警察の方も手が回りかねるので、皆近隣のグループグループで組織を作って、各地区は自分たちで守ってほしい。鮮人(ママ)を見つけたら警察につきだすこと、良いね』とふれて行った。」
 警察が実際にこうやってふれて行くわけですね。

 次は宮崎世民さんという人。これも1日のまだ明るいうちの話です。
 「憲兵の腕章を付けた軍服の男が時々オートバイでやって来て、『朝鮮人の一隊が、目黒の行人坂をこちらに向かってやって来る。』と言って走り去る」。

 あるいは友納さんという人です。2日の午前2時くらいの話です。
「『朝鮮人が隊を組んで押し寄せてくるらしいです。東京市内があんなに焼けるのも朝鮮人が爆弾を投げたためだそうです。東京を焼き払ったら隣接の町村にも押し寄せて来るという知らせがありました。』『鮮人(ママ)が押し寄せてくるということを誰が知らせたのですか?』『今、警察から言ってきたのです。警官がふれ回っています。』『警察が言うのだから確かだろう。ぐずぐずしていると、どんな目にあうかも知れない。』」
 こんな具合に実際に、警察官とか軍隊とか公の立場の人が流言を撒いているというのが証言でいっぱい分かる。

 でも、警視庁が震災後にまとめた大正大震火災誌には警察官が流言飛語を流したということは一言もかかれない。そこに書かれているのは、流言はあった。警察は流言の元を調べ、全部デマだとわかった。それを民衆に知らせた。しかし民衆は信じずに朝鮮人を殺してしまった。警察は朝鮮人を守ったとしか書かれていない。このギャップは大きいです。だから証言というのは大事だと思う。

 新聞社の関係に務めている人の話。石井光次郎さんという当時朝日新聞に務めていた人がこう言ってます。
 「1日の夜警視庁から帰ってきた者の報告では、正力君から、『朝鮮人がむほんを起こしているという噂があるから、各自気を付けろということを、君たち記者が回る時に、あっちこっちで触れてくれ』と頼まれた。」
 「朝日新聞に務めていた下村宏という人が、『流言だから広めるんじゃない』制したので、他の新聞社の連中は触れて回ったけど、朝日新聞の連中はそれをしなかった。」
 という回想があります。

 他の新聞社の実際の例は、野村秀雄さんという当時国民新聞の記者だったが人こんな風に言ってます。
 「2日の晩に荒木社会部員が飛んできて、『今、各所を鮮人(ママ)が襲撃しているから、朝日新聞でふれ回ってくれと警視庁が言っている』と急報した。一同はこれを聞いて、『よしっ』とばかり小高運動部長ら5~6人と自動車に乗って全市の要所へ『鮮人が襲撃するから用心せよ』とふれ回ったものだ。」
 と自慢げに書いてますが、実際にこのようにふれ回っています。新聞記者も。だから新聞社も罪は重いと思ってます。

 実際に自警団による虐殺事件があちこちで起きるんです。いっぱい有りますが、今日は東京の話だけ。他の地域の話はしません。例えば東京の世田谷とか足立とかの話だけ。いくつか紹介します。

世田谷、烏山:
大橋場というところで事件が起きた。朝鮮人労働者を雇っている親方が東京の方で道が壊れているから修理に行ってくれと頼まれて、トラックに乗って朝鮮人労働者がずうっと東京の方へ向かっていった。たまたま、ここに通りかかったら地震で橋が壊れていた。だからトラックがそこに止まった。止まった瞬間にそこにいた自警団がトラックを改めた。すると中に朝鮮人の労働者がいた。だから自警団たちは朝鮮人が東京を襲いに行くと思ってしまう。だからこういうことになります。「鮮人とみるや警戒団の約20名ばかりは自動車をとりまき、2~3押し問答をしたが、そのうち誰ともなく雪崩れるように手にする凶器を振りかざして打ってかかり、逃走した2名をのぞく15名の鮮人に重軽傷を負わせ怯むと見るや手足を縛して路傍の空き地へ投げ出してかえるみるかえりみるものもなかった。」
正確な人数は分からないが、死亡1名重傷2名、おそらく重傷も死んだと思います。だから3人ぐらいが亡くなっています。

四ツ木橋 青木さん(仮名) :
「たしか三日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人も縛って連れてきて、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹やりで突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、中にはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは30人ぐらい殺していたね。」

 これが現場の写真です。ここが唯一の避難経路だったから、この事件が起きたんです。で、この場所では自警団以外に軍隊がやってくるんですね。浅岡さんという人の証言です。
 「四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人ぐらいずつ朝鮮人を縛って並べ、軍隊が機関銃で撃ち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたんですね。そして橋の下手のところに3カ所ぐらい大きな穴を掘って埋め、上から土をかけていました。」
 この軍隊が機関銃で殺してって言う証言はいっぱいあります。ですから犠牲者の数は多くなった。

 足立区、花畑(はなはた):
当時埼玉県で捕まった朝鮮人が自警団に連れられて、東京の方へ連行されてきた。花畑まで来た時に地元の自警団が朝鮮人が来たというので、いきり立って、連行されてきた朝鮮人を殺してしまう。それがこんな感じの話になります。
「9月4日午後2時頃、埼玉県から関東戒厳司令部に護送中の鮮人孫奉元外4名を花畑村字久右衛門新田自警団金杉熊五郎(40)同人倅□一郎(18)外8名が同地綾瀬タクミ橋上で殺害し死体を川中に投げ込んだ。」
 こういうことが至るところで起きている。

 今、紹介したのは公的な資料に載っているものです。当時の司法省が事件として報告しているものです。でもそれ以外の事件がいっぱい有ります。それを後で紹介したい。
 それから公的な部分で軍隊が虐殺っていうのも公的な資料が一つある。当時の戒厳司令部詳報というのがあって、その中に軍隊がどこそこで何人殺したというのが書いてあります。その中の港区と江東区江戸川区のケースを紹介します。まずは港区。麻布という場所で殺しています。軍隊の記録によると朝鮮人と間違えて日本人を殺したとなっている。でも、目撃者の証言は違うんですよね。林さんの証言、こんな感じです。
 「暗くなりかかった霞町の角を、私が二ノ橋の方に渡ろうとした途端、いきなり2~3メートル先の路地から二つの黒い影が飛び出してきました。夜目にもそれと分かる労働者風の朝鮮人たちです。はっと身構えようとした私の目の前で、彼らの背後をつけてきた2名の兵士が、グサリ、背中から銃剣を突き刺したのでした。兵士たちは何一つなかったような表情で、私の立ち止まっている前を通り過ぎていきました。」
 場所は二ノ橋。古川という小さい川にかかっている橋です。当時麻布に軍隊があったんです。ここの聯隊に所属していた人がしたんです。ただ、軍隊の記録はあくまでも当時の法律に照らして適法であった、正しい行動であったと必ず書かれています。

 田辺貞之助さんの証言は、
「石炭殻で埋め立てた4~500坪の空き地だった。東側は深い水たまりになっていた。その空き地に東から西へほとんど裸体に等しい死骸が頭を北にして並べてあった。数は250ぐらいと聞いた。一つ一つ見て歩くと、喉を切られて、気管と食堂の二つの頸動脈がしろじろと見えているのがあった。後ろから首筋を切られて真白な肉がいく筋も、ざくろのように割れているのがあった。首の落ちているのは1体だけだったが、ムリにねじ切ったとみえて、肉と皮と筋がほつれていた。目をあいているのが多かったが、まるっこい愚鈍そうな顔には、苦悶のあとは少しも見えなかった。みんな陰毛がうすく、『こいつらは朝鮮じゃなくて、支那(ママ)だよ』と、誰かがいっていた。
 ただひとつ哀れだったのは、まだ若いらしい女が、女の死体はそれだけだったが、腹をさかれ、6~7か月になろうかと思われる胎児が、はらわたの中に転がっていた。が、その女の陰部に、ぐさり竹槍がさしてあるのに気づいた時、ぼくは愕然として、わきへ飛びのいた。われわれの同胞が、こんな残酷なことまでしたのだろうか。いかに恐怖心に逆上したとはいえ、こんなことまでしなくてもよかろうにと、ぼくはいいようのない怒りにかられた。日本人であることを、あの時ほど恥辱に感じたことはない」。 
 その現場は今、江東区東大島の文化センターという公共の建物になっている。跡形もなにもないが、一カ所で250人、中国人が中心に殺された。

 江東区中央区の境にある永代橋、これは震災のときに焼けてしまったので、通行しにくい状態なのですが、ここに連行されてきた朝鮮人たちが殺されている。それが黒木さんの証言です。
「『鮮人だな』と思った。両手を針金で後ろにくくりりあげられたまま仰向けに、あるいは横に、うつぶしに倒れて死んでいる。着物は彼らの労働服だ。顔はめちゃくちゃである。頭、肩にはいずれも大きな穴があいており、血がひからびてくっついている。そこにはまた、首のない死体がある。首が肩の際から立派に切り取られている。」

 江東区の丸八橋というところ、先ほど中国人がたくさん殺された大島の端っこのところです。浦辺さんという人が目撃しています。「丸八橋までほんの1分か2分というところまで来ましたら、バババパパーンとダダダーンという音がしたわけです。何かしらと思っていくと、橋の向こう側でちょうど軍隊が20人ぐらい、気をつけー』『右向け 右って、整列して鉄砲を担いで行進して移動するところでした。のぞいて見ると橋の右側に10人、左側にも10人ぐらいずつ電線で縛られて。あれは銅線だから、軟らかくて縛れるんです。後ろ手に縛って、川の中に蹴落とされて、それへ向けて銃撃したあとです。左側のはまだ撃たれたばっかりだから、皆のたうって、血が出ているさかりなんです。真っ赤。血が溶けずに漂っているわけです。右側のは先にやったんでしょう、血も薄れていました。『なんだか知らぬがむごいこと』と息をのみました。」

 下江戸川橋(今井橋)、東京の江戸川区と千葉県の境の橋です。ここの橋のところでも軍隊が待ち構えて、朝鮮人を殺している。それが須賀さんの証言です。
「今井橋には習志野の騎兵連隊が戒厳令で来ていた。当時、富士製鉄には今の平田組と同じようにパルプを運んだり、まきとりをしたりする木下組という運送の下請けがあって、その飯場朝鮮人も働いていた。9月4日頃だったか、3人ばかりがひっぱられ軍隊に引き渡され、夕方暗くなってから鉄砲で殺されるのを見た。後ろ手にゆわえられたまま川の中に飛び込むのを見た。このとき初めて、鉄砲の威力の恐ろしさを目の当たりに知った。」

 今、証言を紹介しましたが、ここまでは公的な資料、司法省であるとか軍隊であるとか公的な資料に載っている話なのです。でも、ここから先は、そういう公的な資料に一切載っていない話なのです。つまり証言でしか分からない話です。私はこれを集めようとしたんです。なぜか。とてもじゃないけど公的な資料だけでは全然足りない。もっともっと事件はあったはずだと思ったからです。具体的にいくつ紹介できるか分かりませんけど、紹介しようと思います。

 まず町田市鶴川の神社の話。この神社の鳥居は壊れていますが、関東大震災の時に壊れたということで、記念として壊れたまま残してあります。町田という場所では朝鮮人虐殺はなかった。
 町田で青木組という土木工事をやっているグループの若者がいて、青木保三さんという人です。その人が100人ぐらい朝鮮人を雇ってたんですね。関東大震災があって朝鮮人が暴動を起こしていると聞くわけです。だから青木さんたちは警察官を連れてきて、青木さんもピストルを持って、10人ぐらいで現場に乗りこむわけです。で、実際に乗りこんでみると、

「世間から噂された、朝鮮人の各地で起こった〈蜂起反乱〉状態とはおよそ反対で、彼らはあべこべに自分たちの命が危険状態にさらされていることを知って、『ぜひ食料だけは与えてくれ、そうすれば飯場に籠城して、決して外には出ないから、命だけは助けてもらいたい。』」
 その状態を見て、青木さんは町田の警察に報告して八王子に戻っていくわけですが、八王子の御殿峠まできたところ、武器を持ったものものしい一団と出会った。鶴川方面から八王子に来襲する朝鮮人の一団と、決戦しようと出動した警察官ならびに、八王子の民間の一部有志連中だった。そこで、さきの真相を話して、引き上げてもらった。だからこの人の連絡がもうちょっと遅れていたら、実際にこの連中が飯場に行って朝鮮人を襲っていたわけです。
 こういう直前の事件ていっぱいいっぱい有ったんです。朝鮮人がいたところでは必ず事件が起きた、あるいは事件が起きる直前だったと思ってまちがいない、というのがこの証言です。

 新宿、神楽坂の話。中島さんがこう言ってます。
「神楽坂警察署の前あたりは、ただ事とは思えない人だかりであった。突然トビ口を持った男が、トビ口を高く振りあげるや否や、力まかせに、つかまった2人のうち、一歩遅れていた方の男の頭めがけて降り降ろした。わたくしはあっと呼吸をのんだ。ゴツンと鈍い音がして、殴られた男は、よろよろと倒れかかった。ミネ打ちどころか、まともに刃先を頭に振りおろしたのである。ズブリと刃先が突き刺さったようで、わたくしはその音を聞くと思わず声を上げて、目をつぶってしまった。不思議なことに、その凶悪な犯行に対して、誰もとめようとしないのだ。」

 

 この写真は実際に神楽坂警察署が押収した凶器類ですが、半端な数じゃない。当時まだ刀剣の所持がほとんど黙認されていたので、家の中に有るんですね。トビ口もその一つだったと思います。

 

後半はこちら 

http://himitsulock.hatenablog.com/entry/2017/12/03/160906